そんな下らないことをグダグダと頭に巡らせながら、あの時から幾度となく往復した...
Untitled
何者にもなれなかった自分を何かにしたかっただけである。 そこそこ出来上がってしまった人生を、このまま壊してしまいたくなる衝動と、もったいなさの恐怖からくる中途半端を抱えながら日々を決断できずにここまで来てしまった。 ズルズルとナメクジの通った軌跡の如く、ただ自らが歩いた道程の証拠だけが粘着質に嫌みたらしく後ろ足にへばり着いていた。 どうせ明日も同じように時が過ぎ、また一歩、汚い足跡をべちゃりとつけるのだ。 若さを消化していく過程で、何かに追われる感覚すら消えて行き、今、自分に残されているのは虚無に似た何か。 あることにはあるのだが、ない感覚。 そんな感じである。 それを感じることができる今はまだ救いようのある段階なのかもしれない。 しかし、その救いが何処にあるのか誰に求めれば良いのか、自分で獲得できるものなのかも分からない。 このまま朽ちて、ただ盲目に生を消費仕切った一人の、いや、一つの個体として土に帰り、魂のない物質に回帰するのだ。 自我というものは不思議なもので、それそのものを意識しようとすればするほど、焦点が如実にボヤける。 その反対に、一つの冷静さもなく、痛みや快楽や怒りに身を預けている時ほど自らの生を強く感じられるのである。 だから自分が自分であることを意識したければ、何も考える必要はない。むしろ考えてはいけないのだ。
そんな下らないことをグダグダと頭に巡らせながら、あの時から幾度となく往復したいつもの道を、今朝も通ったこの道を、朝とは逆の方向に歩み進める。戦場で疲弊しきった兵士のようにズルズルと、なぜそこに居るのか、という単純な理由さえも見つからないまま、環境に示された方向だけを見つめながら。前を、少し前だけを見て。 その先に何があるのかなんてわかりっこないし考える余裕もない。ただひたすらに「その日」「その時」を消化するだけである。 そうこうしているうちに、またいつもの扉の前に立っていた。 すごすごと古ぼけたそのエレベーターの中に入ると、電源ケーブルの刺さっていない監視カメラに一瞥を食らわせ、小さな声で悪態をつく。 「ふんっ、ケチくせぇ…」 何度同じ感想を抱いたのかはわからないほどには常態化していたその感情が、今夜はなぜか少しだけ、か細い音となって外に出てしまった。 この世の中は無駄だらけだ。無駄なことが多すぎて何一つ整合性が取れていない。バグのあるソフトウェアの方がまだ説明がつく。お前らが存在している理由は何なんだ。それでお前の目的が果たせると思ったら大いなる勘違いだ。世の中そんなに甘くない。 まるで、その監視カメラもどきに自らを投影しているかのように、さっきまで己へ向けていたブサイクな棘をそいつへ向ける。
今日は別に特段嫌なことがあったわけではない。あえて、嫌だったことを一つ上げるのであれば「何も変わらなかった」ことである。 正月明けの仕事はじめ。それくらいである。この歳になるとそんなことは何ともない日常の中のほんの些細な出来事でしかなく、不慣れな時に感じていた年明け感的な何かはほとんど感じられない。むしろその無感情な事実が、より日常を日常足らしめてしまっていた。 そう、今日という何もない、なんの特徴もない、なんの変哲もない、ただ至って普通の、無味で乾燥したカラカラの一日を終えたのみである。一つの個体として、一つの物質として、ただエネルギーを取り込み、発散し、時空をほんの少しだけ歪め、ささやかながら質量を誇示した。そんないつもの月曜日だった。 本当は先週の金曜日が会社としての始業日なのだが、少しでも特別感を演出したくて残っている有給休暇を1日削り「正月」を延長してやった。 無駄な抵抗なのは百も承知だ。 それどころか無用に期待値を上げてしまったことで、長期休み明けの出社という余分な事実が現実感を増幅させてしまったかもしれない。 そんな気だるい自分の身体を運んでくれたエレベーターを後にし、茶色の扉の前に立つ。 無防備に突っ込んでいたボロボロの革財布をポケットから取り出し、小銭入れのチャックを引っ張る。ミントグリーンのまだら模様に酸化して変色してしまった鍵を取り出し、ふと、扉の向こうに居る人物が言いそうなことを妄想する。 「みっともないから掃除しなよ」 そうだろう。みっともない。 みっともない人間にはみっともない持ち物がお似合いなんだ。だから黙っていてくれ。 「またそうやってグジグジいじける」 「あなたのそういうところキライなんだよね」 なんとでも言え。これが俺だ。お前が選んだ俺なんだ。 そんな俺様のご帰還だぞ。
「おかえりー」 開いた扉から差し込んだオレンジの光とともに、聞き慣れた声が内扉の向こう側から微かに聞こえた。
…
「そこ」が俺がストレートに人生を過ごした最後のポイントである。 39歳の1月7日。親父が死んでからちょうど37年後の「ポイント」だ。
あれからどうしたのだろうか。 俺の昨日の記憶はそこで途切れていた。 いつの間にかもう朝だ。遮光能力の低いアイボリーのカーテンが青白く無寛容な朝の太陽光を少しだけ柔らかく薄黄色に染めていた。 時計の針を確認すると確かに朝を指していた。7時35分。たしか昨日も同じ時間に起きた気がする。が、そんなことはどうでも良い。 歳のせいかここのところすぐに起きてしまう。ジジィになっている自分の身体に嫌気がさすが、それはオッサンであるという自覚がまだ足りていないのだろう。世間ではアラフォーとかいう異様にダサい名付けがされているが、そういう歳だ。抗っても仕方あるまい。 そうは言っても朝は嫌いだ。何度経験してもそれは変わらない。単に嫌いなものに慣れただけである。学習性無気力とでも言うべきか。 別にそんな能書きを朝っ腹から自覚したわけではないが、そんな感覚を抱く自分をおぼろげながらにも認識し、なんとなく、理性がある風の己の心理に納得していた。 まだ残っている。人間性。 その曖昧で無根拠な客体。 何かを説明しているようで、何も言っていない詐欺師の挙動。 それを考えて意識できることによる満足感。 頭が脳ミソが脊髄が本日も曇天なりと日常を告げる。